Mag-log in最初に響いたのは、ヴァレクの大剣とフェルザ王国騎士の長槍が噛み合う鋭い金属音だった。乾いた谷へ火花が散り、互いの武器へ込められた力が衝撃となって足元の砂を跳ね上げる。ヴァレクは刃を立てて真正面から受け止めず、大剣の腹を斜めに当てて槍の穂先を外側へ滑らせ、その勢いのまま柄頭を相手の胸当てへ叩き込んだ。鎧越しの鈍い音とともに若い騎士が数歩後退したが、ヴァレクは追撃しなかった。刃を返せば喉へ届く距離だったにもかかわらず踏みとどまった横顔には、敵を相手にする時とは違う苦さが滲んでいた。「アルノ」呼ばれた若い騎士の表情が揺れた。兜の下から覗く顔にはまだ若さが残り、剣を握る指にも一瞬だけ迷いが生じる。「副団長……」「もう違う」ヴァレクは短く答え、再び伸びてきた剣を鍔元で外した。相手の手首へ大剣の柄を打ちつけると、剣が砂の上へ落ちる。それでも彼は刃を身体へ入れず、武器を失ったアルノからすぐに離れた。十二人の中には彼が名前を知る顔がいくつもあるらしく、視線が一人を捉えるたび、ごく僅かに呼吸が変わっていた。元部下や同期として同じ砦を守った相手を殺せないというより、今ここにいる騎士たちもまた、王命に従って奈落まで降りてきた者なのだという事実を切り捨てられないように見えた。だが、フェルザ側は同じ遠慮を見せなかった。前衛三人が術式盾を揃え、その隙間から長槍を突き出す。後方では二人の術師が同時に詠唱を始め、赤い魔法陣から乾いた熱気が立ち上がった。団長グラーデンは中央後方から全体を見渡しながら、ヴァレクだけでなくリュゼルたち全員を敵として処理するための指示を飛ばしている。「右から来る!」イセラの声を聞くより半呼吸早く、リュゼルは騎士の肩が沈むのを見ていた。以前なら《瞬脚》で一気に死角へ回り込んでいたが、今は通常の足運びで槍の軌道から外れる。伸びてきた柄へ黒鎖短剣の背を斜めに当てて穂先を下へ逸らし、そのまま相手の懐へ踏み込んだ。喉や脇腹ではなく、鎧の厚い肩へ柄頭を叩き込み、腕が落ちたところへイセラが滑り込む。湾曲刀の平が騎士の手首を正確に打ち、握っていた武器だけを弾き飛ばした。「殺すなと言った本人が一番前にいるな」「前衛をやるなとは言ってないだろ」「自分で全部片づけるなとは言われただろ」耳の痛い返答にリュゼルが口を閉じた瞬間、谷の上から灰白色の煙が流れ込んできた。刺激臭
イセラが城へ戻ってきた時、最初に異変へ気づいたのはリュゼルだった。普段の彼女は足音をほとんど立てず、広間へ入ってからようやく帰還を知ることさえ珍しくない。それがその日は、外周回廊の向こうから明確な靴音が続き、結界の境界を越えた直後には黒豹の尾が大きく振れていた。呼吸もわずかに速く、額へ薄く汗が浮いている。リュゼルは長卓に広げていた保存食の一覧から顔を上げ、その様子だけで食料や魔物とは別の問題が起きたと察した。「何があった」イセラは水を求めることもなく、卓の端へ両手をついた。「人間の騎士団だ」広間の空気が変わった。フィオルが修理中だった魔力灯から顔を上げ、子どもたちも話を止める。少し離れた場所で大剣の手入れをしていたヴァレクだけは、動きを止めたまましばらく何も言わなかった。「何人」「十二。全員、正規装備。鎧だけじゃない。深層用の保存食、解毒薬、長期燃焼灯、奈落用の杭まで持ってる。迷い込んだ探索隊じゃない」リュゼルの眉が寄る。「進路は?」「こっちだ。しかも真っ直ぐ来てる」そこまで聞いて、ネフィリアが腕を組んだ。紫紺の瞳が冷える。「偶然ではないわね」イセラは頷き、腰の袋から黒い石片を一つ取り出した。地図へ書くより早いと判断したらしく、卓の横に積もっていた薄い砂へ指先で紋章を描く。三本の槍を束ね、その背後へ王冠を重ねたような図形だった。「紋章はこれ」ヴァレクの手から布が落ちた。誰もすぐには声をかけなかった。彼の暗赤色の右目は、砂に描かれた印へ釘づけになっている。「フェルザ王国」ヴァレクが低く言う。リュゼルは彼を見る。「祖国か」「ああ」短い返事だったが、声がわずかに硬かった。数日前まで、自分が死ねば十二人の部下への報いになると信じていた男が、今は城の一角で子どもの皿を取ってやり、フィオルへ荷物の持ち方を教えている。その過去が、地上から形を持って追いついてきたのだ。「俺を追ってきた」ヴァレクはそう言って大剣の柄へ手を伸ばしたが、リュゼルはすぐ首を振った。「それだけじゃない」イセラも同じ考えだったらしく、卓の砂へ指を走らせる。「奴らは分岐で迷ってない。奈落深層まで来た人間なら、普通は三回に一回は止まって方向を確認する。こいつらは地図か案内を持ってる。それも、かなり正確なものだ」「この城の場所まで?」「少なくとも、この周辺に何かある
王域の西端を巡回していた影鳥が異常を伝えてきたのは、朝食の器を片づけ終えた直後だった。普段なら外周を一巡した影鳥は静かにネフィリアの肩へ戻るが、その日は広間へ飛び込んだ途端に輪郭を激しく震わせ、床へ落ちる直前で黒紫色の影へ崩れた。直後、城全体を下から持ち上げるような鈍い振動が走り、長卓に残っていた金属杯の水面へ細かな波紋が広がる。二度目の衝撃では壁の簡易照明まで明滅し、月角兎が驚いて食料庫の陰へ逃げ込んだ。ネフィリアはすぐに片膝をついて掌を石床へ当て、王域を通して西側の結界へ意識を伸ばした。「何かが結界へ身体をぶつけているわ。かなり大きい。それも一度や二度ではないみたい」「魔物?」リュゼルが立ち上がると、ちょうど外周確認から戻ってきたイセラが黒豹の耳を西へ向けた。結界越しでも聞こえる低い咆哮が遠くで響き、少し遅れて岩盤を重い爪が削る音が届く。彼女は目を閉じたまま数呼吸ほど振動を読み、やがて険しい表情で腰の湾曲刀へ手を置いた。「一体だ。四足でかなり重い。熊型だと思うが、普通の個体じゃない。結界の同じ場所を狙ってる」三度目の衝撃が来た。今度は王域そのものが軋む感覚までネフィリアへ届いたらしく、紫紺の瞳が鋭く細まる。結界は魔物を遠ざけるには十分な強度を持っているが、同じ一点へ大型魔物が何度も体当たりすれば、魔力の薄い箇所から亀裂が広がる可能性がある。フィオルも工具を置いて立ち上がりかけたものの、リュゼルはすぐ手で制した。「フィオルは残ってくれ。王域の魔力値を見て、西側だけ急に落ちたら影鳥を飛ばして知らせてほしい」「僕も行ったほうが役に立つかもしれないよ?」「戦うことだけが役に立つことじゃない。今は結界の状態を正確に見られる奴が残ってるほうが助かる」フィオルは少しだけ迷ったあと、自分の胸元へ手を置いて頷いた。賢核を修復してから、自分を壊してまで前へ出ようとする癖は少しずつ減っている。「分かった。壊れそうになったらすぐ呼ぶ」と答え、子どもたちのいる広間中央へ戻っていった。リュゼルは黒鎖短剣を腰へ差し、ヴァレクも壁際へ置いていた欠けた大剣を背負った。イセラは二本の湾曲刀を確認し、ネフィリアは子どもたちへ王域の中央から離れないよう言い聞かせる。四人が城門へ向かったところで、先頭を歩いていたヴァレクが足を止めた。「今日は継承した能力を使うな」ネフィリアの表
食料庫の棚を直していたリュゼルの背後で、何かが風を切った。反射的に振り返り、右手を上げる。掌へ収まったのは一本の木剣だった。城の倉庫に残っていた硬木を削ったものらしく、刃に当たる部分は丸めてあるが、重さも長さも実戦用の片手剣に近い。振り向いた先にはヴァレクが立っていた。傷が塞がってから数日が過ぎ、もう歩行に支障はない。それでも黒鉄の鎧はまだ身につけず、簡素な黒衣の腰へ自分用の木剣だけを差している。「構えろ」「何で?」「見ていられん」リュゼルは受け取った木剣と、ヴァレクの隻眼を交互に見た。「何が」「全部だ」言い切ると、ヴァレクは食料庫から出ていった。説明を続ける気はないらしい。リュゼルは半ば呆れながら、作りかけの棚へ視線を戻した。フィオルが新しく作った冷却器のおかげで保存できる食料が増えたため、昨夜から棚を一段増やしている。最後の金具を打てば完成するところだった。「これ終わってからじゃ駄目か」廊下へ声を投げると、少し離れたところからヴァレクの返事が飛んだ。「午後でも棚は逃げん」「俺も逃げないぞ」「お前は死ぬ可能性がある」棚と剣の話が、いつの間にか生死の話になっている。リュゼルは小さく息を吐き、木槌を工具箱へ戻した。こうなったヴァレクが引かないことは、この数日で分かっている。中庭へ出ると、すでに見物人が増え始めていた。シュカたちは朝食の後片づけを途中で切り上げて城壁際へ集まり、フィオルは片手に分解途中の魔力灯を持ったままついてきている。外周の見回りから戻ったばかりらしいイセラも、黒豹の耳についた細かな砂を払いながら壁際へ寄った。最後にネフィリアまで現れ、黒紫色の長衣の腕を組んで中庭を見下ろしている。「全員来る必要ある?」リュゼルが尋ねると、シュカが即答した。「何するのか気になる」「僕も」フィオルは楽しそうに木剣を見る。イセラは短く言った。「見ておく価値はありそうだ」ネフィリアだけは何も言わなかったが、その口元がわずかに緩んでいる。「絶対楽しんでるだろ」「あなたが何度地面へ転がるか興味があるだけよ」「十分楽しんでるじゃないか」そんな会話のあいだにも、ヴァレクは中庭中央の小石を足で除け、足場を確認していた。そこだけ切り取れば、騎士団の訓練場と変わらない厳格さだった。「来い」呼ばれ、リュゼルは中央へ歩く。木剣を片手
城の朝は、住人が増えるたびに少しずつ騒がしくなっていた。王域の結晶灯が夜を模した青紫色から淡い白へ変わる頃には、水路で顔を洗う音が響き、食料庫から朝食用の保存肉が運ばれ、フィオルの作った簡易照明が廊下の端から順番に灯っていく。三匹の月角兎は餌を求めて広間の隅を走り回り、子どもたちは誰が皿を並べるか、誰が水を汲むかで毎朝のように小さな言い争いをしていた。崩れかけた地下神殿だった頃には、足音一つにも魔物の気配を疑っていた場所が、今では寝起きの欠伸や笑い声を受け止めるようになっている。その変化をリュゼルは悪くないと思っていたが、同じ光景を別の価値観で眺めている者もいた。広間の入口へ立ったヴァレクは、朝食前の混乱を目にして露骨に眉間へ皺を寄せていた。外周区画で一時滞在を始めてから数日が経ち、深かった脇腹の傷もどうにか塞がりつつある。本人は「死ぬのをやめたわけではない」と念を押していたものの、高熱が下がった翌朝には自分から包帯を巻き直し、預けていた黒鉄の鎧の手入れまで始めていた。生きる意思が戻ったとは言い切れないが、少なくとも身体を壊れたまま放置することはやめている。そのヴァレクの目の前では、シュカが片足で椅子へ乗って棚の皿へ手を伸ばし、隣では二人の子どもが水を零し、その横を月角兎が走り抜け、フィオルは食卓の端いっぱいに工具を広げて壊れた魔力灯を分解していた。「全員、止まれ」低く通る声が広間へ落ちた瞬間、それまで重なっていた物音が不自然なくらい一斉に止んだ。兵を率いてきた者の声には、意識せずとも人を立ち止まらせる圧が染みついているらしい。シュカは棚へ伸ばしていた手を止め、フィオルも小さな金属板を持ったまま顔を上げた。鍋の火加減を見ていたリュゼルまで反射的に振り向き、それに気づいて自分で少し嫌な顔をした。ヴァレクは広間へ入り、子どもたちを順番に見回した。「食事前に走るな。席へ着く前に手を洗え。工具と食器を同じ卓へ置くな。それから、物を取るために椅子へ立つな。落ちる」最後の一言は明らかにシュカへ向けられていた。少年は渋々椅子から降りたものの、唇を尖らせている。「リュゼル」「何だ」「いつもこうなのか」「もっと酷い日もある」ヴァレクの右目が僅かに見開かれた。「なぜ放置している」「放置してない。今も声かけてただろ」「声を飛ばすだけでは統制とは言わん」「統制す
ヴァレクが目を覚ました時、結界外周にある空き部屋には淡い紫色の光が満ちていた。城の本棟からは少し離れ、もともとは崩れかけた監視所だった場所を《王域形成》で補修した部屋で、寝台と小さな卓、水を流す細い水路以外にはほとんど何もない。預かった大剣は扉の外でイセラが管理しており、窓代わりの細い開口部にはネフィリアの影鳥が止まっている。子どもたちが暮らす場所から距離を取りながら、見捨てることもしない。その中途半端な扱いが気に入らないのか、ヴァレクは目を開けてすぐ険しい顔をした。起き上がろうとした身体は、肘をついたところで止まった。黒鉄の鎧はすでに外され、胸から脇腹にかけて巻かれた応急処置の布には赤黒い染みが広がっている。左脇腹の裂傷が最も深く、右肩には魔物の爪が食い込んだ跡があり、古傷の上へ新しい傷が重なっていた。額には熱があり、呼吸も浅い。それでもヴァレクは自分の状態を確かめるより先に、壁際の椅子へ座っていたリュゼルを見た。「まだいたのか」「見張りだからな」「獣人の女に任せればいい」「イセラは外を見てる。俺は怪我人を見る」ヴァレクの暗赤色の右目が、寝台脇の道具へ移った。薬草を煮出した水、清潔な布、針と糸、フィオルが作った簡易的な消毒液。それを見ただけで、何をされる予定なのか理解したらしい。「必要ない」声は掠れていたが、意思だけははっきりしていた。リュゼルは椅子から立った。「傷を縫わないと塞がらない。熱も上がってる」「必要ないと言った」「死ぬぞ」「そのために来た」返事は一拍もなかった。リュゼルの手が止まる。ヴァレクは本気だった。脅しでも、自暴自棄になっている者が反射的に吐く言葉でもない。長い時間をかけて自分の中へ落とし込んだ決定を、事実として口にしている。痛みに顔を歪めながらも、その目には死そのものへの怯えがなかった。リュゼルには、それが分かってしまう。《看取り人》。かつて役立たずと呼ばれた職能は、死に近い者の痛みと恐怖を感じ取る。能力を意識すれば、ヴァレクの苦痛を少し引き受けることも、死へ向かう身体をわずかに楽にすることもできるだろう。だが。今は使わなかった。ヴァレクは病や事故で死を迎えようとしているのではない。自分から死に場所を求め、治療を拒んでいる。その男から痛みだけを奪えば、結果として死へ進む苦痛を和らげることになる。それが







